本稿はビデオゲーム作品『UNDERTALE』(Toby Fox,2015)を、主に文化人類学や民俗学の観点から解説したり考察したりするものです。
ネタバレが含まれますので、未プレイ及びプレイ中の方はご注意ください。
【目次】
︎︎︎︎☑︎はじめに
︎︎︎︎☑︎近代以前の伝統的な地下世界
1.地下世界訪問譚
2.通過儀礼
3.タブー
︎︎︎︎☑︎近代以降の地下世界と『UNDERTALE』
1.地下世界訪問譚と通過儀礼
2.サンズとタブー
3.『UNDERTALE』ならではの表現
☑︎おわりに
はじめに
『UNDERTALE』は発売から8年が経った現在でも、世界中の人々を魅了し続ける不朽の名作RPGです。
「MOTHER」シリーズを彷彿とさせるレトロで可愛らしいドット絵、シナリオや音楽の奥深さ、平均6時間程度でクリア出来る手軽さ、「誰も死ななくていい優しいRPG」という斬新なコンセプト、秀逸なローカライズ、魅力的なキャラクター……。
そんな『UNDERTALE』のあらゆる要素がその人気を支えていますが、私はこれらに加えて「『UNDERTALE』が伝統的かつ普遍的な物語の構造を持っており、どんな人でも物語の世界に入り込みやすかった」という点もあったのではないかと考えています。
本稿では『UNDERTALE』の舞台となる地下世界(地底世界)に着目し、まず神話や民話などの伝統的な物語の地下世界を紹介していきます。その次に伝統的な物語で登場するタブーや儀礼的意味に触れ、『不思議の国のアリス』などの近代ファンタジーの地下世界に言及します。最後にそれまで紹介したことと『UNDERTALE』の物語の共通点を挙げ、自身の見解を少し述べたいと思います。
なお、引用するゲーム画像やセリフ、内容などは日本語ローカライズ版『UNDERTALE』(2017,Nintendo Switch)を参照しました。
近代以前の伝統的な地下世界
1.地下世界訪問譚
我々人類が住む地上の遥か下、地下には異世界がある。古来より様々な地域で、多くの人々にそう信じられてきました。
例えばキリスト教や仏教では地獄、ギリシャ神話では冥府、日本神話の黄泉の国、シュメール神話やメソポタミア神話では冥界の存在が描かれています。
主に地獄は生前に罪を犯した人々が罰せられる場所、冥府や黄泉の国、冥界は死後に向かう場所として描かれましたが、「地下世界=人間が死後に向かう場所や死者の世界」という点は共通しています。
一体何故、異なる時代や地域で同じような描かれ方がされているのでしょうか。
西郷(1999:39)は、地下に死者の世界があるとする神話的思考は、人の死体が地下に埋められること(土葬)に基づくとしました。つまり時代や地域が違っていても土葬文化が共通していたために、物語に共通の要素が見られたということです。
また地上より上、天上の世界に神がいるという共通イメージも関係していると考えられます。天界に神がおわすのならば、地下世界には真逆の存在である死者がいるべきといったところでしょう。
そしてこれらの神話や伝説、説話や民話などの物語には、地下世界を訪問する人間の話が度々登場します。日本神話のイザナキが、亡き妻イザナミを追って黄泉の国へ行く話は有名ですが、ギリシャ神話やシュメール神話、メソポタミア神話にも、夫が妻のいる死者の世界へ行く話があります。
このことは「物語の類型」で説明が出来ます。人類学や民俗学などの人間の文化を扱う分野では、世界中の物語を調べあげた学者達がいて、その人達が物語によくあるパターン(型)をいくつか見つけてまとめました。それが「物語の類型」です。地下世界を訪問する人間の物語は「地下世界訪問譚」という型で、先に紹介した話以外にも様々な地域や時代で見られる物語の筋書きです。
「地下世界訪問譚」は「異郷訪問譚」という型の一種です。「異郷訪問譚」とは今で言う異世界系のようなもので、ひょんなことから異なる世界を訪れることになった人間の物語全般を指します。
『浦島太郎』や『鼠浄土』(『おむすびころりん』の名称で知られる昔話)、『コブ取り爺』などは全て「地下世界訪問譚」のひとつです。ちなみに『浦島太郎』の舞台は正確に言えば海底ですが、これも「地下世界訪問譚」の一つとして扱われます(西郷 1999:pp.45-52)。
しかし『おむすびころりん』や『コブ取り爺』は、死者の世界ではない愉快な地下世界が登場しています。一体何故でしょうか。
それは、大地が生と死という相反する意味を持っているためだとされています。死者が還る土としての意味が強調されれば死者の国として、命を育む「母なる大地」としての意味が強調されれば楽土として描かれる(西郷 1999:pp.39-44)ようです。
いずれにせよ、これら近代以前の地下世界は、人間に主導権の無い異世界(永井 2009:pp.949-950)として描かれます。
2.通過儀礼
地下世界は死者が還る土であり、女性原理に属し、ものを生み出す母胎(西郷 1999:60)でもあることは先に紹介しました。
このことから「地下世界訪問譚」で描かれる地下世界への旅は、生と死を意味する地を通して象徴的な意味で一度死に、生まれ変わるという通過儀礼的な側面もあると考えられます。
通過儀礼とは「成人式」のような、子供が大人の世界に加入するための儀式のことです。子供としての自分は死に、新しく大人として生まれ変わる 「死と再生」の儀式を経ることで、参加者は一人前の大人と認められました。
また、ファン・へネップ(1873-1959)は、通過儀礼には「分離」「過渡」「再統合」という三つの局面があるとしました。つまり通過儀礼は日常から離れて(=分離)非日常を経験し(=過渡)、再び新たな日常へと戻る(=再統合)過程だということです。
地下世界は人間に主導権の無い異世界であり、そこを訪れるというのは明らかに非日常の出来事です。更に物語の舞台となる地に生と死の意味があるのならば、なおさら「死と再生」の儀式としての意味は強くなると考えられます。
ちなみに現在では、実際に参加する通過儀礼に「大人の世界に加入するための、死と再生の儀式」の意味はほぼ無くなりました。しかし、子供が大人になっていく過程での子供の心の中、内的体験では今もその意味を残しています。
今は大人の皆さんも、子供の頃にそれまでの自分が死んでしまうくらいの衝撃を受けたことがあるのではないでしょうか。弟や妹が生まれた時、サンタクロースの正体を知ってしまった時、初めての受験で失敗した時など、多かれ少なかれ、きっと様々な体験があるかと思います。
いずれにしても、その出来事が起きる前の自分には戻れない程の衝撃です。場合によっては強い痛みも伴うそれは、「これまでの自分」と「これからの自分」を強引に「分離」します。そして時には「これまでの自分」を葬ってまで、前へ進まねばなりません。
人は成長するにつれて、子供のままなら経験しなくて済んだような痛みや困難に何度も直面します。それを乗り越え続けた者だけが、新しい大人としての自分に再び生まれ変わることが出来るのです。
「地下世界訪問譚」に限らず、物語でこのような通過儀礼的な要素が用いられることはかなり多いです。主人公が困難に直面し葛藤した後に成長する話は、古代から鉄板ネタなのでしょう。
3.タブー
「地下世界訪問譚」をはじめとする伝統的な物語では「行動の禁止」、つまりタブーがよく描かれます。
・日本神話の場合
イザナキは亡き妻イザナミを追って黄泉の国へ行き、この世へ戻ってくれるよう頼みました。イザナミは「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、すぐ帰れるかは分からないが神様にお願いしてみる。その間、決して私の姿を覗き見てはならない」と言い、イザナキは扉の外で待つこととなりました。
しかしイザナキは辛抱たまらず妻の姿を覗き見てしまい、イザナミから追われることとなります。最終的にこの世まで戻ってきたイザナキによって、この世とあの世の境は閉じられることとなりました。
・ギリシャ神話の場合
オルフェウスは冥界へ赴き、ハデスに亡き妻エウリディケを返すよう頼み込みました。これに対し、ハデスは「地上に着くまで、決して振り返ってはならない」と条件を出します。しかし、オルフェウスはあと少しのところで振り返ってしまい、悲しみの表情を浮かべた妻は冥界へと戻されることとなりました。
・『浦島太郎』の場合
心優しい青年「浦島太郎」が亀を助けると、御恩として海の底にある異郷「竜宮城」に招待されることとなります。そこでしばらく楽しく暮らした浦島は、ついに故郷へ帰る時、「箱を開けて中身を見てはならない」と念を押されつつも、美しい玉手箱を形見として受け取りました。いざ帰ると故郷は数百年の月日が流れて朽ちており、思わず玉手箱を開けて「見るなの禁」を破った浦島は白髪の老人になったり、鶴になったり、果ては消滅してしまいました(塩入 1992:105)。
小野(1980:13)によれば、このような「行動禁止型」の物語や言い伝えは、被禁止者が罰や災いを受けないために禁止が行われるそうです。
近代以降の地下世界と『UNDERTALE』
1.地下世界訪問譚と通過儀礼
近代にはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)など、独創的な地下世界を描いた作品が多くあります。このような近代以降の地下世界を舞台にしたファンタジーは、近代以前の伝統的な地下世界のイメージを受け継ぎつつも、自由な想像を展開します(永井 2009: pp.950-951)。
『UNDERTALE』の地下世界も、これまでに紹介した伝統的な地下世界や物語観を受け継いだ近代的な「地下世界訪問譚」と言えるでしょう。以下はゲームを起動して、最初に目にすることとなる伝承です。
むかしむかし ちきゅうには ニンゲンとモンスターという 2つのしゅぞくがいました。
ところが あるとき 2つのしゅぞくのあいだに せんそうが おきました。
そして ながい たたかいのすえ ニンゲンが しょうりしました。
ニンゲンは まほうのちからで モンスターたちを ちかに とじこめました。
それから さらに ながい ときが ながれ.........
イビト山 201X 年
それは 『のぼったものは にどと もどらない』といわれる でんせつの山でした。
『UNDERTALE』で描かれる地下世界は、「のぼったものは にどと もどらない」と言われる山にある穴を通じているようです。山や坂などの高いところにある穴が異世界に通じているのは日本神話の黄泉の国を思わせますし、日本では山自体が死霊の世界(=異世界)とされます(西郷 1999:41)。
また、穴の下に愉快な住人の住む異世界が広がっているのは『鼠浄土』や『不思議の国のアリス』と似ている点です。
そして「のぼったものは にどと もどらない」とは、おそらく登った者の死を意味します。そんな山に登って穴に落ちた「ニンゲン」は死んだも同然で、人間の住む世界や日常から「分離」されます。その「ニンゲン」は固く閉ざされた「いせき」エリアの一角、柔らかな花畑の上に落ちて助かります。花は母なる大地に根を張る女性原理的なもので、すなわち生を象徴するものです。
ここでは疑似的な死を迎えた後に再び生まれ、また新しい自分になるという通過儀礼的な意味が既に示されているのではないでしょうか。
更にこれを裏付けるのが、「いせき」エリアの構造は母胎を思わせ、ここでのシナリオは「生まれ直し」のようだという指摘です。以下はその指摘が見られるサイト、動画のリンクになります。
ミヤケ書房「UNDERTALE考察『電気仕掛けの箱型マシン』番外編 UNDERTALEとジェンダーフリー」では、このように書かれています。
ゲーム開始時に主人公は『クッション』の花の中から目覚め、フラウィーになかよしカプセルと称する『種』状のものを浴びせかけられ、『保護者』を名乗るトリエルの施しを受け、長い長いいせき(Ruins)の『通路』を通って地下世界に出ていくことになる。
「いせき」の入り口は「子宮」を思わせる形状をしていますし、十中八九「いせき」は母胎を指すと考えられます。外の世界へと通じる、固く閉ざされた重い扉もおそらく「子宮口」でしょう。
重い扉を開けて「いせき」を抜けると、ここで初めて『UNDERTALE』とタイトルが表示されます。母胎である「いせき」での出来事はいわばプロローグであり、そこから先、生まれてからが本編なのです。
母親の庇護から離れたニンゲンはたった一人で行動することとなり、自身の行いに責任が生じるようになります。誰を殺し、誰と友達になるかは自由ですが、それによって地下世界は地獄にも楽土にもなり、良くも悪くも別人のように変貌を遂げます。
2.サンズとタブー
そして「いせき」を出てから初めて目にするキャラクターはサンズですが、彼はよくタブーとされることをニンゲンにやらせようする節があります。
・振り返るタブー
・覗き見てはならない、「見るなの禁」
・異世界の食べ物を食べること
しかし振り返ってもサンズはニンゲンを殺しませんし、サンズの部屋に入っても災いは起こりませんし、地下世界の食べ物を食べても地上へと帰れます。「被禁止者が罰や災いを受けないために禁止が行われる」タブーを、単なる迷信として嘲笑っているかのようです。サンズは我々プレイヤーにわざとタブーを犯させ、災いなどニンゲンが悪意を持たなければ起こらないと示しているのでしょうか。
もしくは、「スケルトン=元ニンゲン説」の補強のための描写かもしれません。地上世界へ一度も行ったことがなく、ほとんどの場合ニンゲンを見たことすらないはずのモンスターが、何故タブーや迷信の類を知っているのでしょう。ウォーターフェル等に流れ着くゴミに混じって関連書籍があったのかもしれませんが、他のキャラクターにこのようなことを言われた記憶はありません(要検証)。
サンズは「最後の審判」や「地獄で燃えてしまえばいい」(原語版:Should be burning in hell.)など、やけにキリスト教的な語彙を使うキャラクターです。そのため元ニンゲン故の知識を使い、時にプレイヤーを動揺させているとしても納得が行きます。
真相は分かりませんが、サンズの謎めいた側面を強調する描写だと個人的には感じました。
3.『UNDERTALE』ならではの表現
『UNDERTALE』ならではの地下世界の描き方は、なんといっても地下世界の住人(モンスター)が皆地上を夢見ており、人間に敵対心を抱いているとは限らないところです。これは神話などの伝統的な物語だけではなく、RPGをはじめとするゲームの常識も覆すものでした。
また、人間の文化が遅れて伝わっていることも挙げられます。モンスター達はインターネットで SNS を楽しんだり、テレビ番組やアニメを視聴したりしていて、今を生きる我々とあまり変わらない生活をしています。Tobyの現代的な感性が反映されているこの設定には、モンスターを身近に感じさせる効果があり、「誰も死ななくていい優しいRPG」のコンセプトを陰ながら支えています。
おわりに
このように『UNDERTALE』の地下世界は、伝統的な物語(主に地下世界訪問譚)の特徴に自由な発想が加わった描き方がされました。
『UNDERTALE』のレビューでは、その自由な発想を評価するものが多い印象を受けます。例えば革新的なシナリオやキャラクター、ゲームシステムや制作方法などです。それらはもちろん素晴らしいものなのですが、もし『UNDERTALE』が自由で革新的な要素のみで構成されていたら、少々奇抜すぎて人を選ぶ作品になっていたかもしれません。
伝統的な要素も含まれるからこそ、全世界で親しまれるような作品になり、我々プレイヤーの常識や偏見を裏切るシナリオが成り立ったのだと自分は考えます。
拙い文だったとは思いますが、最後までお読み下さりありがとうございました。
参考文献
小野浩一 1980『物語を中心とした行動禁止の研究』
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/19442/KJ00005086324.pdf
西郷信綱 1999『古代人と死 : 大地・葬り・魂・王権』東京 : 平凡社
塩入秀敏 1992「口承文芸と民族のこころ:昔話「浦島太郎」を中心にして」『生きる』99 -106頁 長野:上田女子短期大学公開講座
田中慶江 2008「13 歳少女のイニシエーションに関する一考察 : 初潮と猫イメージをとお して」『京都大学大学院教育学研究科紀要』558-571 頁
永井太郎 2009「地下世界の近代」『福岡大学人文論叢巻』41 号 945-983 頁 福岡:福岡 大学研究推進部
ヘネップ、ファン 2012『通過儀礼』 綾部恒雄・綾部裕子訳、東京 : 岩波書店
レヴィ=ストロース、クロード 2016『火あぶりにされたサンタクロース』中沢新一訳・解説、東京: KADOKAWA
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